功山城
功山城は、市川左岸の甲山(標高102m)にあり、別称を妻鹿城・国府山城・甲山城・袴垂城ともいわれています。初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。その後、姫路城内で生まれた黒田官兵衛孝高の父職隆は、天正元年(1573)に姫路城から功山城に移り居城としました。また、天正8年(1580)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としましたこれに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩56万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。天正13年(1585)職隆が没した後は、廃城となったようです。なお、職隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。
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